2020年2月12日水曜日

★奥の細道紀行 第264章 加賀市片山津②「首洗池」

↑「篠原古戦場・首洗池  寿永2年(1183)、倶利伽羅の戦いで木曾義仲に大敗した平家の軍勢は、加賀平野を南下し、篠原の地(現在の加賀市篠原町付近)で陣を立て直し、義仲との決戦を図りました。しかし勢いづいた義仲軍を阻止することはできず、平家軍は再び敗れ去りました。このとき、敗走する平家軍で、ただ一騎踏みとどまって、戦ったのが斎藤別当実盛でした。実盛は、老武者と侮られることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦しましたが、手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂げました。樋口次郎兼光が討ち取った首をこの池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わりました。それはまがいもなく、その昔、義仲の命を助けた実盛の首でした。この物語は『源平盛衰記』などに記されており江戸時代から人口に膾炙されていました。なお、実盛着用の甲冑を、木曾義仲が多太神社に奉納したと伝えられており、元禄2年(1689)芭蕉が『奥の細道』の行脚の途中に立ち寄り、この兜によせて
むざんやな 兜の下の きりぎりす
と詠んでいます。」
首洗い池
「首洗池」碑
 ↓左・木曾義仲



 ↓この兜が、小松市の多太神社に奉納されている。今も宝物館にあり、重文

 ↓実盛の首を抱く義仲


 ↓涙を流しているように見える。絶妙
 〇芭蕉句碑がある。
 『むざんやな兜の下のきりぎりす
 ↓ 居合わせたお爺さんが教えてくれた。あそこの休憩室(あずまや)の壁に絵がある。その言葉が無ければ出会うことがなかった絵詞を紹介しておく。
↓ 頼朝、義仲が平氏討滅の兵を挙げると、各地で、能登加賀でも源氏が蜂起。
↓ 俱利伽羅峠で平氏の大軍が敗退。勢いづいた源氏の軍勢は、北國街道を手取川から能美、江沼へと追いかけた。
↓ 平氏の軍は加賀篠原の松林で群を立て直したが、義仲軍に蹴散らされて四散
 ↓実盛が白髪を染めている。実盛はこの戦もはやこれまでと覚悟を決め、老武者と侮られては武士の恥と考えて白髪を染めただ一騎取って返した。手にしている鏡を沈めた「鏡池」が近くにあるというが、どこか分らなかった。
 ↓手塚光盛に討ち取られた
 ↓樋口次郎兼光が首を洗っている。その首は、幼少の義仲の恩人斎藤実盛のものだった。
↓ 驚いた光盛と兼光は、その首をすぐに木曾義仲に差し出しました
↓ 義仲は、実盛の亡骸(なきがら)を近くの松林に手厚く葬りました。

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