2020年2月2日日曜日

★奥の細道紀行 第248章 射水市新湊「放生津(ほっしょうづ)八幡宮」

曾良随行日記』 『十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川(から)一リ(里)程来、渡テトヤマへ別(れる))、三リ、東石瀬野渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(★註)(渡有。甚大川也。半里計(ばかり))。 氷見へ欲行、不往。高岡へ出ル。』
★註 「ハウ生子」←これが何を指すのか、難題だった。先ず読みが問題。ああでもないこうでもないの末に「はうしょうず」と読んだ。そして射水市新湊の街中で「放生津八幡宮」に偶然着いた時に閃いた。この神社、読みは「ほっしょうづ八幡宮」。元は「ほうしょうづ」だったろう。「はうしょうづ」の現代風読みは「ほうしょうづ」だろう。曾良が「ハウ生子」で表記したのは「放生津神社」だったのだ。違いない。
↓夕闇がやがて降りてこようという頃に神社に到着。


拝殿
↓これは狛犬(こまいぬ)ではない。獅子である。
↓本殿


↓拝殿
↓芭蕉句碑を発見
↓「市指定文化財 芭蕉翁の句碑
  早稲の香や分け入 右は有磯海
俳人松尾芭蕉は、元禄2年(1689、46歳の春門人曾良とともに「奥の細道」の旅に立つ。7月14日(現8月28日))
滑川から富山へ寄らず神通川を渡り海老江を過ぎ松原を通って放生津に入り、氷見の担籠(たこ・田子)への道を尋ねたが「へんぴな所で泊まる宿もなかろう」といわれ心もとなく高岡への道を辿る。この句は、このとき詠んだものという。句碑は芭蕉の150回忌の天保14年(1845)9月、強度の俳人子邁が翁をしのび建立する
早稲の香や 分け入る右は有磯海
句碑は風化して「早」の字くらいしか判読できない。
↓大友家持の歌碑
↓「越中守大伴家持宿祢の ‥‥
 早春の奈呉之浦の景、「東風(あゆのかぜ)」は、当市では「アイの風」と呼び、北から吹いて豊かな海の幸を運ぶという」
↓神社の裏手の海岸線が那古の浦にあたると思われるが、今は埋め立てられて漁連の大建物が並びその先に漁港が開かれている。



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