2020年2月15日土曜日

★奥の細道紀行 第277章 福井県永平寺町松岡「天龍寺」「北枝との別れ」

天龍寺
丸岡(★註1)天龍寺の長老、古き因(ちなみ)あれば(★註2)尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ(慕い)来る。所々(ところどころ)の風景過さず思ひつヾけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別(わかれ)に望み(臨み)て、
物書て扇引さく余波(なごり)
★註1 丸岡は「松岡」の誤り。丸岡は隣町。天龍寺は、松岡松平藩の菩提寺
★註2 長老は大夢和尚。この僧侶はもと江戸品川の天竜寺の住職で芭蕉とは知己であった
〇「清涼山・天龍寺」曹洞宗。芭蕉はここに一泊した。
山門
 ↓山門前の芭蕉塚
↓「芭蕉塚 元禄2年(1689)の旧暦8月10日、松尾芭蕉は「おくのほそ道」で有名な旅の途中、旧知の仲であった大夢和尚と会うために、天龍寺を訪れました。芭蕉を慕って金沢からついて来た立花北枝と一緒に、この寺で一泊したと言われています。8月11日の朝、芭蕉は北枝と別れて永平寺に向かいます。北枝との別れに際して詠んだのがこの句です。
物書きて扇引きさく余波哉
芭蕉の訪れは、この地域に俳句が広まる大きなきっかけとなりました。天保14年(1844)、芭蕉を慕う松岡の人々が、芭蕉150回忌の際に建てたのが、この芭蕉塚です。
永平寺町教育委員会」
 本堂






芭蕉句碑 《物書て扇引さく余波哉
 ↓芭蕉と北枝の石像。北枝は金沢から松岡まで芭蕉を送ってきた。芭蕉は扇に句を書いてそれを二つに裂き、一方を北枝に与えた。




 ↓坐禅堂


↓藩主の位牌堂




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