2020年2月8日土曜日

★奥の細道紀行 第255章 小矢部市埴生口「倶利伽羅峠古戦場へ」

奥の細道》《卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中(なか)の五日也。》
曽良随行日記』『十五日 快晴。高岡ヲ立。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯の花山也。クリカラヲ見テ、未の中刻、金沢二着。』
〇木曽義仲軍の進撃路である富山県埴生口から倶利伽羅峠古戦場を辿る。埴生口には道の駅があり資料展示場がある。
「義仲 軍勢を進めし道」
埴生口には《埴生八幡宮》がある
参道脇の《木曾義仲像》

↓「源氏ヶ峰=源氏山」が左上に白抜きで表示されている。

〇旧北国街道を,埴生口から倶利伽羅峠に登ると、幾曲がりかで峠に着く。ここが「塔の橋」。古来「馬の背」と呼ばれた険しく狭い尾根筋だった。三叉路になっていて、左に行くと竹の橋口(津幡町)に、手前の道は埴生口(小矢部市)に、右に行くとこれも小矢部市に出る。
↓塔の橋。源氏方の火牛の計の実施場所だそう。
↓塔の橋付近から見た源氏山(卯の花山)。中央奥の山。義仲軍の別動隊がこの山の方面から塔の橋の平家軍に迫ったという。手前右側の谷は地獄谷。火牛の計にかかり平家軍が追い落とされていった谷だそう(遺憾ながら源氏山の明瞭写真が消滅)。替わりに→源氏山」が雨煙の中に霞む(中央奥
)。義仲軍の別働隊がこの方面から進軍した。「地獄谷」は眼下。

↓「この地(塔の橋)は、古来より矢立まで3町程を「馬の背」のような険しい所であった。旅人も大変難儀をしたと(古老の話)。前田利長公が、高岡に行くようになってから北国街道(旧称)が整備された。尚、当地は近年今の道となる(付近に北國街道の古道が残されている)」
「塔の橋」。平家の将「平行盛」がここまで進出して布陣し源氏軍と対峙した。平氏軍の最前線。


塔の橋の尾根側面の低地に、義仲軍の本隊が布陣した
義仲軍の本隊が布陣した丘が見える。源氏軍の本陣は、平家が本陣を布いた「猿が馬場」から細長く伸びて「塔の橋」に至る尾根筋を側面から見る位置にあった。
義仲本陣の位置には源氏の白旗が目印に立てられている。サービス満点

↓ 塔の橋・猿ヶ馬場の入口に建つ「火牛の計」の碑
塔の橋から険しい尾根伝いに猿ヶ馬場に突っ込んできたという火牛の銅像、二頭いる。角二本に火松明を括り付けられている。「火牛の計」は中国・戦国時代の斉将・田単の戦法として有名だが、倶利伽羅峠でこの戦法が用いられたかどうかは疑問。地形的には無理がある。平家物語には出て来ない。「源平盛衰記」に現れる。田単の火牛は尻尾に火松明を括り付けられて猛進する。
↓火牛に追われて地獄谷に追い落とされる平家軍。
↓「源平合戦慰霊の地」石碑

↓「猿が馬場」。峠の平坦地。平家軍の本陣が置かれ、軍議もなされた
「猿が馬場」は広くない。ここに平家軍の騎馬軍兵7万が布陣するのは不可能。源平双方の軍勢の数は3倍ほどサバが読まれている。
「源平古戦場さるが馬場」の石碑

↓ 猿ヶ馬場の芭蕉塚


義仲の寝覚の山か月かなし》判読し難い

↓芭蕉句碑
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
この句は倶利伽羅峠で詠まれたものではない。越後路・越中路・加賀路と歩みながら(猛暑・秋の気配などを体験しながら)醸成された句だとみられる。

  芭蕉句碑
義仲の寝覚めの山か月悲し
この句も倶利伽羅峠で詠まれたものではない。越前・燧ヶ城で詠まれた。
↓奥の細道全句集の堂。大事な句が欠けている→《しすかさや巌にしみいるせみの声》

↑ 越中で詠んだ句は、《わせの香や分け入る右は有磯海》だけ。
〇猿ヶ馬場の「源平合戦慰霊之地」の石碑
猿ヶ馬場の「源平供養塔」
「為盛塚」。平家にも勇士が多かったことが分る。
旧・北陸道。供養塔の横
旧・北陸道。峠茶屋跡の横

↓峠を津幡側に少し下ると、倶利伽羅不動寺と手向神社がある。
↓津幡側に下りると、そこは竹橋口。道の駅・源平合戦の郷竹橋口がある。
↓その道の駅の火牛の凄まじいこと。傑作。
★   ★   ★   ★   ★
〇竹の橋口(津幡町)から俱利伽羅古戦場を探訪したときの資料を追加する。
倶利伽羅峠の戦い 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「倶利伽羅峠の戦いまたは砺波山の戦い(となみやまのたたかい)は、平安時代末期の1183年6月2日に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。だが、越中へ進出した平家軍が般若野の戦いで義仲四天王の今井兼平に敗れてしまう。平家軍は一旦後退し、能登国志雄山に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして、平家軍の油断を誘い、ひそかに樋口兼光の一隊を平家軍の背後に回りこませた。平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。『源平盛衰記』ではこの攻撃の際に義仲軍は数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に放ったと言われるが、この戦術が実際に使われたかどうかは疑わしい。角に松明をくくりつけられた牛がまっすぐ前方に走るとは考えにくく、おそらく中国戦国時代の斉の武将田単の火牛の計を参考に後世脚色されたものであると思われる。」
昨日は木曽義仲が本陣を敷いた倶利伽羅峠・埴生口を見分した。今日は平家軍が峠を目指した竹橋口を振り出しに旧北国街道を辿って倶利伽羅峠源平古戦場を見分することに。
↓ 道の駅「倶利伽羅源平の郷・竹橋口」。巨大な火牛像が出迎えてくれる、迫力満点・圧巻、叩いてみると張り子の牛↓ この地図は好い、大きくお見せできればいいんだが。平家軍は水色。布陣しているのは「倶利伽羅不動尊」「五社権現」「猿ヶ馬場」「倶利伽羅峠」にかけての平坦地。その面積は大きくない。ここに7万の軍隊が駐屯することは到底不可能、せいぜい2万前後が限度じゃないか(直感)(平家軍は10万と言われているが、うち3万は志雄山方面に割かれている)。対する源氏軍は5万と言われているが、これも大袈裟。1000名程度の部隊に分かれて夜襲を掛け、その総勢は1万もいなかったんじゃないか。平家軍の背後(左側)から迫る一隊は、
源氏山に回り込んだ義仲軍の別動隊。
↓ 左側の俱利伽羅峠の尾根の上に赤旗を靡かせて平家軍が布陣している。右側の低地に白旗を靡かせて源氏軍が対峙している。源氏軍の夜襲を受けて平家軍が雪崩落ちた地獄谷は、画面からはみ出した左側に位置する。
以上二つの図面は、古戦場・猿ヶ馬場に亡霊の如く忽然と現れた源氏の子孫という人から頂戴した。その人物は頼みもしないのに寄って来て「蟹谷正之」と名乗った(教員免許を示したから間違いない、社会の先生)。そして言うには、自分は三、四年前からボランティアで古戦場を案内し解説している、自分は源氏の勇士「蟹谷次郎」の800年後の子孫である、蟹谷次郎は保元・平治の戦いに敗れて京を追われた源氏の武士で越中国に住み着いた木曽義仲の旗上げに呼応し倶利伽羅峠の夜襲戦で源氏軍を敵陣に導き勝利に貢献した、眼下の谷こそ平家軍が雪崩れ落ちた「地獄谷」であり「膿川(うみかわ)」はあの谷間を流れる、等々。何よりも猿ヶ馬場に立ち古戦場の地理を識者の指示で比定できたのは嬉しい。
↓ 猿ヶ馬場に建っている観光案内図
白い矢印は、地獄谷に雪崩れ落ちていく平家軍を示している
木が伐採されている部分が、地獄谷に落ち込んでいく崖の斜面し。中央奥に見える山こそ「源氏山」。義仲軍の別動隊がこの山の方面に回り込み平家軍に迫った。蟹谷次郎由緒之地」石碑。蟹谷次郎は実在したこの由来記にも随所に「蟹谷次郎」が登場する猿ヶ馬場。火牛2頭の像がいる猿ヶ馬場に立つ「蟹谷正之」氏案内してくれた源平供養塔、猿ヶ馬場にある
「為盛塚」。為盛は平家の勇将だったそう
「源平合戦慰霊之地」石碑旧「北国街道」の一部。蟹谷氏の説明では、この道筋に「三十観音」等の石仏が並んで居たそう

1 件のコメント:

  1. 寒さにも負けず相変わらずの行脚(笑)気をつけてね。

    返信削除