2020年2月13日木曜日

★奥の細道紀行 第268章 加賀市「那谷寺」

那谷寺 山中温泉
奥の細道》《山中の温泉に行ほど、白根が嶽(★註1)跡に(後ろに)みなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲(だいじだいほ)の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智(西国33箇所観音霊場第1番・那智山青岸渡寺)、谷汲(同第33番・谷汲山華厳寺)の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
石山の石より白し秋の風
温泉(★註2)に浴す。其功有明(★註3)に次と云。
山中や菊はたおらぬ湯の匂
あるじとする物()は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛(京都)の貞室(★註4)、若輩のむかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳(★註5)の門人となって世にしらる。功名の後、此一村判詞の料(はんじのりょう、俳諧の指導料)を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。》
★註1 白山のこと
★註2 山中温泉
★註3 有明は有馬の転写ミス
★註4 安原貞室。貞門俳諧の中心的俳人
★註5 松永貞徳。貞門俳諧の祖
曾良随行日記
一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜・志挌等来テ留トイヘドモ、立。伊豆尽甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真(実)盛が句也。予・北枝随レ之。
一 同晩 山中ニ申ノ下尅(さるのげこく・午後5時過ぎ)、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北へ夕立通ル。
一 廿八日 快晴。夕方、薬師堂其外町辺ヲ見ル。夜ニ入、雨降ル。
一 廿九日 快晴。道明淵、予、不レ往。
一 晦日 快晴。道明が淵
一 八月朔日 快晴。黒谷橋へ行。
一 二日 快晴。
○三日 雨折々降。及レ暮、晴。山中故、月不レ得。夜中、降ル。
一 四日 朝、雨止。巳ノ刻、又降 而止。夜ニ入、降ル。
一 五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣(★註1)。明日、於小松ニ、生駒万子為出会也。 従順シテ帰テ、艮(即)刻、立(★註2)。大正侍(ひどい当て字で大聖寺のこと)ニ趣(★註3)。全昌寺へ申刻着、宿。夜中、雨降ル。』
★註1 奥の細道の紀行文では那谷寺を訪れた後山中温泉に至っているが、曾良随行日記のメモでは山中温泉に投宿を続けた後に那谷寺に赴いている。翌日小松で生駒万子の為に会に出る目的だったそう。この場合も、曾良のメモが正しいだろう。
★註2 曾良は、芭蕉・北枝の那谷寺行きに従順した後、小松に戻るのは遠慮して山中温泉に帰り、即刻独りで宿を立って大聖寺の全昌寺に向かった。独り先行したのは、腹の具合が悪く、伊勢長島に身寄りがあったのでそこで養生するためだっという。しかしこの理由で曽良が芭蕉と別れたと受け止めるのは違和感がある。真相は別のところにありそう。その理由なら、山中温泉で養生するのが先だろう。スタスタと先行するのは理由齟齬を来す。
★註3 以降の曽良随行日記は、曽良の単独行の記録。
 那谷寺山門
 ↓ 観音堂
 ↓ 千手観音像。新像。巨大、美しい。
↓ 奇岩怪石

 ↓大悲閣拝殿・重文
 ↓三重塔・重文
 ↓芭蕉句碑。右側
 ↓左・句碑、右・翁塚
 ↓翁塚
 ↓芭蕉句碑(写真が90°横になっている)
石山の石より白し秋の風
 ↓護摩堂・重文
〇奥の細道の記述では、この後山中温泉に向かうことになっているが、実際の行程は全然違う。曾良の随行日記に記された旅程が正しい。芭蕉は、7月27日に小松から山中温泉に行き、8月5日に曾良と別れ、北枝を伴って再び小松に戻っている。そして小松に戻る途中で那谷寺に詣でている。曽良随行日記では、那谷寺までは曽良も同道したように読めるが、曽良は那谷寺にも同道していないと見る人もいる。
★     ★     ★
数日前北国新聞に、今那谷寺の苔の緑が美しいという記事が載っていたので雨中の探訪。拝観料は600円、これまでの最高(さいたか)
緑の苔


鐘楼(重要文化財)へ

若宮白山神社

庚申塚・縁結びの神
芭蕉句碑。

石山の石より白し秋の風
奇岩遊仙境


唐門
水掛け不動
毘沙門天像
稲荷社へ
岩屋本堂大悲閣へ
岩屋本堂大悲閣(重要文化財)


胎内潜り
三重塔の中の胎蔵界大日如来・鎌倉時代作
三重塔から風月橋へ
風月橋の先の鎮護堂。祀られているのは神らしい。
鎮護堂からの眺め

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