中岡慎太郎の生家は、室戸市の山中深くの在所に在る。岬から30kmほど北西。
中岡慎太郎
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土佐室戸の大庄屋の長男。武市半平太の道場に入門し、1861年土佐勤皇党に加盟、志士活動を展開。1863年土佐藩内で尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると脱藩、長州に亡命。以後長州藩内で脱藩志士たちのまとめ役。1864年活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させた(中岡慎太郎自身のこの頃の手紙による)。そして長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結に向けて活動。海援隊の坂本龍馬らを巻き込んで慶応2年(1866年)京都の薩摩藩邸において薩長同盟を結実させた。1867年龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免された。以後薩土同盟締結に向けて奔走し、盟約締結に至った。さらに長州の奇兵隊を参考に陸援隊を組織し自ら隊長となり、京都の土佐藩邸を陸援隊の本拠地とした。この頃討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。京都近江屋に坂本龍馬を訪問中何者かに襲撃され瀕死の重傷を負った(近江屋事件)。龍馬はほぼ即死、慎太郎は二日間生き延び暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細を語って死亡。享年30。 室戸岬に銅像が立つ。この銅像は桂浜にある龍馬の銅像が向かう先と同じ方向を見ているといわれている。
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