2019年11月1日金曜日

★奥の細道紀行 第147章 山形県尾花沢市「芭蕉七泊の宿・養泉寺」

奥の細道》《尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
 涼しさを我宿にしてねまる也 
  這出よかひや(1)が下のひき(2)の声
 まゆはきを俤にして紅粉の花
 蚕飼(こがい)する人は古代のすがた哉 曾良》
1 蚕の飼い屋
2 蟇蛙
曾良随行日記』『十七日昼過、(鈴木)清風へ着く、一宿ス
十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居
十九日 朝晴ル。素英、ナラ茶賞ス。夕方小雨ス。
廿日 小雨。
廿一日 朝、小三良(郎)へ 被招。同晩、沼沢所左衛門へ被招。此ノ夜、清風ニ宿。
廿二日 晩、素英へ 被招。
廿三日ノ夜、秋調へ 被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。
廿四日之晩、一橋、寺ニテ持賞ス。十七日 より終日晴明ノ日ナシ。(  以下、俳号と本名(一部地名)のメモ書きが並ぶ)
秋調 仁左衛門。〇素英 村川伊左衛門。 〇一中 町岡素雲。〇一橋 田中藤十良()遊川 沼沢所左衛門。東陽 歌川平蔵。〇大石田(地名)一栄 高野平右衛門同、川水 高桑加助。上京(地名)、鈴木宋専、俳名似林、息(子息)小三良()新庄(地名)渋谷甚兵へ()風流
廿五日 折々小雨ス。大石田 より川水入来(洪水になった)、連衆故障(こしょう)有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調(仁左衛門)ニテ庚申待ニテ被招。
廿六日 昼ヨリ於遊川(沼沢所左衛門ニ東陽(歌川平蔵)持賞ス。此日も小雨ス。
廿七日 天気能。辰ノ中尅(午前8時)、尾花沢ヲ立テ、立石寺へ趣
〇《曾良随行日記》の記載によれば、5月17日昼過ぎに尾花沢の鈴木清風宅に着きそこで一宿した。そして27日まで芭蕉と曾良は尾花沢に十泊滞在した。その間、芭蕉と曾良は清風宅に三泊、養泉寺に七泊し、その間に歌仙二巻を巻き、清風や地元の俳人たちに様々にもてなされた。その中には、新庄から駆けつけた渋谷甚兵衛・風流、大石田から駆けつけた高野平右衛門・一栄らもいた。このあと出羽路の旅で、芭蕉はかれらを頼って大石田・新庄にも脚を延ばすことになる。

↓芭蕉七泊の宿・養泉寺


 ↑「おくのほそ道ゆかりの地 天台宗・養泉寺  上野寛永寺直末(じきまつ)、旧堂は元禄元年(1688)に新築、芭蕉は「ほくのほそ道」の途次、月山・鳥海山を望むこの寺に七日間くつろぎ、自由に諸俳士と交流した。「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑(涼し塚)が宝暦十二年(1762)に建てられた。明治二十八年(1895)の尾花沢大火で旧堂は焼失、現寺観は同三十三年に再建され、最上三十三観音第二十五番札所となっている。境内には、昭和六十三年七月三日に建てられた「芭蕉・清風」連句碑もある。」
↓ここ尾花沢は奥州馬の産地だった。
↓本堂。芭蕉当時の本堂は焼失
↓庫裏。芭蕉が訪れたときの面影は全くない。


↑↓「芭蕉ゆかりの井戸  ‥‥寺は明治28年の大火で類焼して(芭蕉と曾良がこの寺に7泊した)往時の面影はなくなりました。この外井戸だけが当時を偲ぶ唯一のものであり人呼んで「芭蕉ゆかりの井戸」といいます。‥‥」
↓「涼し塚」




↑「芭蕉遺跡・養泉寺 寺は天台宗で芭蕉が来た元禄の頃は、東叡山の直末の寺院で格式も高く栄えていたが明治維新の変革と火難にあって今日に至った。芭蕉と曾良は、清風の深い配慮で修築直後で木の香も未だ新しく環境も静寂なこの寺院に寛ぎ、自由に諸俳士とも交遊し楽しく俳風を伝え、且諸情を練り七泊した、ゆかりふかい遺跡である。境内には翁の句碑があり「涼し塚」と称す。
涼しさを我が宿にしてねまる也 芭蕉」
↓《涼しさをわか宿にしてねまる也


↓「十泊のまち尾花沢 芭蕉翁」


↑↓《すゞしさを我やどにしてねまる也   芭蕉
  つねのかやりに草の葉を焼      清風
  鹿子立をのへのし水田にかけて    曾良
  ゆふづきまるし二の丸の跡     素英
尾花沢・清風亭に於ける歌仙《すゞしさを》である。
〇尾花沢・清風亭で巻いたもう一巻の歌仙「おきふしの
おきふしの麻にあらはす小家かな   清風
 狗ほえかゝるゆふだちの蓑       芭蕉
 ゆく翅いくたび罠のにくからん     素英
 石ふみかへす飛こえの月      曾良

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