2019年11月5日火曜日

★奥の細道紀行 第152章 山形県北村上郡大石田町「高野一栄宅跡」芭蕉三泊の地

奥の細道》最上川の(乗)らんと、大石田と云所に日和を待。爰(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、 芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、 爰(ここ)に至れり。 》
曾良随行日記』『一 廿八日 馬借テ天道(天童)ニ趣。六田ニテ、又内蔵(俳人)ニ逢。立寄ば持賞(もてな)ス。 未ノ中尅(午後2時頃)、大石田一英(栄)ニ着。両日共ニ危シテ雨不降*。上飯田 より壱リ半。川水(俳人)出合。其夜、労ニ依テ無俳。休ス。
一 廿九日 夜ニ入小雨ス。発一巡終テ、翁 、両人誘テ黒滝へ被参詣(黒滝山向川寺へ参詣された)。予所労故、止。未尅(午後2時)被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入、帰。
〇一 晦日  朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺へ被、帰、物ども被書。』
〇大石田は最上川の船役所のあった宿場。ここで芭蕉は俳人高野一栄の家で三泊した。今年初夏の旅行ではその家の探訪に失敗した。この盛夏の旅行は研究を重ねたので楽勝で発見と思えたが、どっこい下車して目を皿にして表通りを探索して歩いても全然見当たらない。またも挫折かと失意の底に落ちた時、裏の最上川堤防に至る小路が見えた。念のため堤防から街並みの裏側を覗いていくことに。すると土手道でも諦めかけた時に草に埋もれた「奥の細道」の標識が見えた。小躍りして辺りを探索。そしてとうとう一栄宅跡に到達した。
↓大石田の土手道から見た最上川。上流

 ↓下流
 ↓土手道で「らしきもの」発見。
↓とうとう「高野一栄」宅跡に辿り着けた。


 ↓「芭蕉遺跡・一栄亭三泊 芭蕉と曾良が一栄亭高野平右衛門を尋ねたのは元禄二年旧五月二十八日であった。川水(高桑加助)は途中まで出迎え、最上川畔の船宿である一栄亭に案内した。翌日から俳諧あり、芭蕉は新しい蕉風の種をこぼし「わりなき」一巻の歌仙を残し今に当地に珍蔵されてある。そのときの翁の表発句は、さみだれをあつめてすずしもがみ川 であった。翁は黒滝の向川寺を参詣、また川水宅の招きにも応じ、朔日の朝、馬で発足、一栄と川水は途中阿弥陀堂まで送り、別れを惜しんだ。」
 ↓何やら案内標識がある。

 ↓土手から下に下りる。
↓「芭蕉翁真蹟歌仙”さみだれを”の碑」の案内

   
↓「芭蕉翁真蹟歌仙"さみだれを"の碑
芭蕉翁は、元禄二年に大石田を訪れ、新古ふた道に踏み迷いさぐり足している、一栄と川水に俳諧の指導をしました。そして、出来ましたのが歌仙”さみだれを”といわれる一巻です。芭蕉翁は、自ら筆を執ってこの歌仙を書きました。平成元年は、芭蕉翁が「おくのほそ道」を旅してから三百年にあたりますので、記念として、その歌仙の初折の表六句と名残の裏六句並びに奥書を二倍に拡大して刻んだ碑を、歌仙が巻かれた由緒の地に建立いたしました。
碑文 
さみだれをあつめてすヽしもがミ川 芭蕉
岸にほたるを繋ぐ舟杭        一栄
瓜はたけいさよふ空に影まちて   曾良
里をむかひに桑のほそミち      川水
(以下略) 」
  ↓一栄宅跡は綺麗に整備されていた。誰かが手入れしている。表通りからは全く窺い知れず、又何の案内標識もないのが惜しまれる。


 ↓芭蕉翁真蹟歌仙”さみだれを”の碑文




  ↓再び土手道に上がる。
 ↓一栄宅跡を振り返る。
  ↓船役所跡に至る土手道

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