2019年11月15日金曜日

★奥の細道紀行 第174章 羽黒山手向(とうげ)「正善院・黄金堂」

『曾良随行日記』『‥○十日(羽黒山南谷宿泊最終日)曇。‥‥。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻(ひつじのじょうこく。午後1時半頃)ニ及ブ。道迄、円入 被迎。又、大杉根迄被送。祓川ニシテ手水シテ下ル 。左吉ノ宅ヨリ翁計(ばかり。翁だけ)馬ニテ、光堂(★註)迄釣雪送ル。左吉同道。‥‥
★註 手向(とうげ)に在る正善院の「黄金堂」のこと。源頼朝が平泉討征の時、土肥実平に命じて建立したと伝えられている。その名のいわれは、三十三体のご本尊(千手観音)が金色に映えるからだとのこと。
〇羽黒山修験道「寺派」総本山「正善院」に参詣。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の時、羽黒山の修験道は「神派」と「寺派」に分裂した。正善院以外はすべて「神派」になった。羽黒山内の寺院の堂宇はすべて取り壊され、中の仏像も捨てられた。しかし寺院堂塔で残されたものがある。仁王門と国宝・五重塔。仏像で残されたものがある。山門を守護していた阿吽の仁王像。二体の巨像は正善院・黄金堂に運び込まれ今も保管されている。他にも幾つもの小仏像が黄金堂に避難している。
↓ 正善院・山門正善院の前の旧道を渡ると向かいに黄金堂がある。
↓左・仁王門、真ん中の奥・黄金堂(光堂)
仁王門。羽黒山・山門(今、随身門)から運び込まれた二体の仁王像は、この山門にはいない。像が大きすぎてこの門に収まらない。後ろに建つ黄金堂の内部に窮屈そうに立っている。

重文・黄金堂(光堂)





黄金堂の本尊・33体の観音像。京都の三十三間堂の中の国宝千体観音像さながらに光り輝いている。よって光堂・黄金堂の名があるらしい

黄金堂の見物はこの33体のまばゆい観音像だけではない。黄金堂内に入ると目の前にその巨大な姿を場違いに現す仁王像、33観音像の周囲の回廊に所狭しと並べられている羽黒山から避難し担ぎ込まれてきた諸仏の数々。説明に立ってくれた若い修験僧が残念がったのは国宝・五重塔の前立三尊と伝承のある仏像の前でのこと。国宝・五重塔の御本尊(観音像だったらしい)も黄金堂に運び込まれる手筈だったが、村人の中にそれを横流しして換金した不埒者がいたという。この話は、随身門前で在所の老人からも聞いた。その観音像は傑作だった可能性がある。あとで五重塔を回ったら、今は大国主命を祀っていた。五重塔は本来仏舎利塔ではないのか。仁王門(山門)は廃仏毀釈で神門に性格を変えられて、今は右近・左近の随身武士が守っている。その像が小さ過ぎて場違い。

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