2019年11月19日火曜日

★奥の細道紀行 第181章 象潟への道中、山形県遊佐町「吹浦、三崎峠、有耶無耶の関」。秋田県にかほ市「三崎公園」

曾良随行日記』〇十五日 象潟へ趣く。朝ヨリ小雨。吹浦ニ至ル前より甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此の間六リ(里)、砂浜、渡シ二(ふた)ツ有り。佐吉(呂丸)状届く。晩方、番所裏判(うらばん)済み
〇十六日 吹浦を立つ。番所を過ルト雨降り出ル。一リ(里)、女鹿(めが)。是より難所。馬足不通。番所手形納む。大師崎共(とも)、三崎共(とも)云ふ。一リ(里)半有り。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入りニハ不ㇾ入手形(てがたをいれず)。塩越(★註)迄三リ(里)。半途ニ関ト云ふ村有り(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成(なり)ト云ふ。此の間、雨強ク甚濡る。船小ヤ(屋)入りテ喰う。所ノ祭ニ付 而(つきて)女客有るニ因りテ、向屋ヲ借リテ宿ス。‥‥』
★註 「塩越」。象潟の海水は塩越から出入りしていた。
↓「吹浦」「三崎」というゆかしき地名を発見。
 ↓右側に現在地・三崎公園がある。そこに矢印して「有耶無耶の関」と書いてある。左側にJR吹浦駅があり、駅のすぐ右に「鳥海山大物忌神社・出羽一宮」がある。駅の上に「十六羅漢岩」がある。図中央やや右にJR女鹿(めが)駅・女鹿漁港とある。
「有耶無耶の関址」。ちょっと右下に「大師堂」
↓「鳥海国定公園・三崎山 三崎山は、山形、秋田両県境にまたがり、鳥海山観音森より岩石起伏し海面に突き出すこと8km、さきは不動崎(南)、大師崎、観音崎(北)の三つからなっているので三崎山と名づけられた。ここ三崎山は峻坂絶壁が連なり、往時は天然の要塞であったので領主酒井候は関所を女鹿に据えて守らせた。有名な有耶無耶の関のあったのもこの三崎山であり、明治9年時の県令三島通庸が酒田街道を開さくして車馬の便をよくするため改修工事を施し、大正9年には鉄道が開通、さらに昭和38年には国道7号線の舗装工事が施行された。また景観にも恵まれ、三崎山より眺める庄内砂丘、日本海に浮かぶ孤島飛島、男鹿半島、海岸の奇岩怪石が一望させる絶勝の地である。なおこの地は明治維新いわゆる戊辰の役の戦いの古戦場で、戦死した秋田藩士豊間源之助の墓や、天然記念物タブ林があり、この附近で日本最古のものといわれる青銅刀が発見されておる。またわずかに散策すれば、芭蕉の「奥の細道」の旧道があり、古人の辛苦を偲ぶ想いが限りなく去来する 遊佐町」
↓「三崎山「奥の細道」 松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で、今に残る三崎の古道を門人曾良と越えたのは、元禄2年6月16日(1689年・陽暦8月1日)であった。かねて心にかけていた象潟を訪ねるため、前日酒田を出立したものの激しい雨に逢い、やむやく吹浦に一泊し、当日も雨であったが、芭蕉は象潟への期待から雨にもめげず、むかし有耶無耶の関があったというこの難所を超えて行ったのである。タブの木など生い茂る昼なお暗いこの細道を、病弱の身ながら一歩一歩踏みしめて行った様子が今も眼前に浮ぶようである。象潟の景勝にふれる目的を果たした芭蕉が再び酒田に帰るため此処を通ったのは2日後の18日であった。この日は快晴で、東には鳥海山がその美しい姿を見せ、西からは快い海風が吹く日であったという。芭蕉らは行きとは違って足どりも軽くこの峠路を通り過ぎて行ったのではなかろうか。遊佐町・山形県奥の細道観光資源保存会
 ↓「奥の細道・旧道」。芭蕉が酒田・象潟間を往復した時に通った道。この先、三崎峠越えの道は「馬足不ㇾ通」の難所だった。
1100mで三崎峠、有耶無耶の関





 ↓三崎山。このあたりに「有耶無耶の関」があったらしい。今は影も形もない。








 ↓鳥海山。吹浦から見る鳥海山は形が良くない。
〇秋田県にかほ市「三崎公園」
↓「奥の細道・三崎峠」
 ↓「三崎山旧街道」


 ↓「←奥の細道→」



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