2019年11月3日日曜日

★奥の細道紀行 第150章 天童から大石田へ、芭蕉と曾良は陸路を辿った。「最上川三大難所」を舟で下っていない

〇ここは、最上川中流にある「碁点」乗船場。有名な最上川三大難所「碁点(ごてん)」「三ヶ瀬」(みかせ)「隼・早房(はやぶさ)」巡り観光の始まりの地。

 ↓真ん中やや左下に、芭蕉と曾良の二人連れが描かれていて面白い。芭蕉は、天童・立石寺から大石田の船役所までは馬に乗って行って、三大難所の船旅はしていない。しかし、《奥の細道》を読むと、芭蕉は最上川三大難所巡りをしたかのように見える。芭蕉の文学的創作(虚構)。お蔭で新庄が割を食って《奥の細道》の文章から抹殺される悲運にあったことは後述する。
↓「最上川三難所 最上川は山形県と福島県の県境にそびえる西吾妻山を水源とし、日本海に注ぐ河川です。富士川、球磨川とともに日本三大急流と言われています。江戸時代、最上川は経済や文化の大動脈として発展し、江戸や京、大阪との交流が盛んに行われました。しかし、村山市にある最上川三難所は川が浅く、船が通ることが難しい場所で、数多くの船が難破した場所でした。松尾芭蕉は《奥の細道》で「碁点、隼、三ヶ瀬というおそろしき難所あり」と記したほど。最上義光は天正8年(1580)、この三難所を開削し、最上川の舟運文化の発展に大きく寄与したのです。」
 ↓碁点。昔は碁石を敷き詰めたように岩が突起していた。水運の利便を図るため邪魔な岩が除去された。
 ↓三ヶ瀬。川底に細い岩礁が三層をなして並んでいて、水量不足の時は通れなかった。今は川床を掘削して水路が確保されている
 ↓隼・早房。ここは川底全体を岩礁が覆い浅くなっていて急流になっている。
 ↓碁点乗船場に立つ「日本三急流 最上川三難所」の石碑
 ↓上の石碑から眺めた「碁点」の風景。船着き場がある。ここから三大難所巡りの遊覧船が発着する。客はほとんどいない。
 ↓最上川・三ヶ瀬


〇冒頭絵図の左側、最上川が大きく屈曲しているが、その胃袋が垂れ下がったような屈曲部分に大淀という村がある。絶景の地で、そこの岡の上に「真下慶治美術館」がある。真下慶治は、生涯最上川一筋に絵を描いた。
 ↓大淀。真下慶治美術館テラスからの眺め。隼・早房はこの下流少しの所にある(右側が下流)。
↓美術館のテラスから見た大淀風景。
↓大淀

↓大淀を少し下ったところにある「隼・早房(はやぶさ)」の急流
↓以下、真下慶治画伯の絵。
〇以下五点、「はやぶさ」





↓この絵は「三ヶ瀬」
↓この絵は‥‥大淀。隆君の絵。

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