2019年11月13日水曜日

★奥の細道紀行 第170章 羽黒山中、芭蕉6泊の地「南谷」

奥の細道》《六月三日、羽黒山に登る図司左吉(俳号呂丸)と云者を尋て、別当代 会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊に をゐて俳諧興行。
  《有難や雪をかほらす南谷
曾良随行日記』『羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門 より状レ添。露丸子へ渡。本坊へ持参、再帰テ、南谷へ同道。祓川ノ辺 よりクラク成。本坊ノ院居所也。
○四日 天気吉。昼時、本坊へ蕎麦切ニテ 被レ招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計(おもてばかり)ニテ帰ル。三日ノ夜、稀有観修坊釣雪(★註2)逢、互ニ泣第(涕泣)ス。
★註1 図司佐吉・近藤佐吉・露丸子はいずれも呂丸のこと
★註2 釣雪は名古屋の俳人、芭蕉の知己。余りの奇縁に手を取り合って泣いた
〇芭蕉と曾良は、南谷にあった別院に6泊している。6月3日~5日と7日~9日。中間の6月6日は、月山山頂の小屋で泊っているから驚く。
↓ 二の坂から三の坂に入った所。右に折れると南谷。真っ直ぐ石段を登って行くとやがて羽黒山の掲額のある赤鳥居が見える。
↓ 南谷に行く道
 ↓「史跡南谷これより500米」


 ↑「羽黒山南谷について ここから右手の小道約500m入ったところに県指定史跡南谷があります。南谷は俳聖松尾芭蕉が奥の細道行脚の際、門人曾良と六日間逗留し、一句吟じた場所です。今から約300年前、時の羽黒山執行別当(最高責任者)天宥訪印が拓きました。当時、羽黒山頂にはいくつかの寺院が在り、本社・寂光寺(今の三神合祭殿の前身)が類焼するのを防ぐためそれらの寺院を山内に下ろして移築しました。寛文2年に築かれた南谷の紫苑寺もその一つで豪華絢爛な大寺院でありました。しかし、奥の方に位置するため、何かと不便だったので、自然に迎賓館のような機能を果たすようになり、いつしか別院と呼ばれるようになりました。芭蕉の滞在所にあてられたのも、こうした関係からです。その後、文政年間(江戸中期)に覚諄(かくじゅん)別当がこの地の静寂を愛し、しばしば句会を催したりしました。覚諄別当隠居後はほとんど足が踏み入れられることはなく、庭園も荒れ、建物もいたみ、ついに倒壊してしまったので、その跡には八幡坂上(今の三の坂の上)にあった玄陽院という寺を移し、秋の峰の一の宿に当てられるなどしました。その後、明治の神仏分離の際、全て倒壊され、今残っているのは玄陽院の一部の礎石のみです。覚諄別当が建立した松尾芭蕉の《有難や雪をかほらす南谷》の句碑があり、最近では環境省認定かおり風景100選にも選ばれ、俳句愛好者も多数訪れています。また、芭蕉来山当時の南谷の風景を復元しようと地元・手向(とうげ)の若者を中心としたボランティアの人々により心字池等が整備・復元されたので、院をめぐって池を配し、周囲の自然を巧みに取り入れた閑寂幽邃の面影を偲ぶことができます。」


 ↓「南谷→」


 ↓「県指定史跡・羽黒山南谷」。南谷で芭蕉は6泊した。羽黒山側の好意は篤かった。




 ↓ぬかるみの奥に心字池がある。
 ↓手向町の青年団等によって復元された心字池




 ↓「芭蕉の句碑」


 《有難や雪をかほらす南谷
↓芭蕉句碑側面
 「西大路三位隆明卿染筆」。「西大路三位卿」とは「覚諄別当」(別院中興者)のことらしい。ということはこの句碑は、近時ボランティアの手で・草木に埋もれた南谷が再び開鑿され陽の目を浴びるまで人の目から隠され草木に覆われていた。




曾良随行日記』
『祓川の辺りより暗く成る』の「祓川」はここであるか。随身門を潜り石段を下った所にある






『‥四日 天気吉。昼時、本坊へ蕎麦切ニテ 被レ招、会覚ニ謁ス。‥』この「本坊」は、ここであるか。
 ↓羽黒山斎館旧華蔵院 表参道石段を昇り切った所にある。表参道赤鳥居の直近






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