2019年11月20日水曜日

★奥の細道紀行 第182章 「象潟」に到着

〇象潟の段は、その構想・構成が芭蕉の自由奔放なセンスが発揮されて、探訪の順序・実態と懸け離れている。事の真相を知るには、曾良随行日記に頼るのが正確である。そこでこの章では、先ず曾良随行日記の引用から始める。
曾良随行日記』 〇十六日 吹浦ヲ立。‥‥昼ニ及テ塩越ニ着。①々木孫左衛門(能登屋の主)尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。(ところ・在所)ノ祭ニ付 而女客有ニ因テ、②向屋ヲ借リテ宿ス。先、④象潟橋迄行而、雨暮気色ヲミル。⑤今野加兵へ()、折々来テ被レ訪。
〇十七日 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山⑥ 彌(満)寺へ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、⑦熊野権現ノ社へ行、躍等ヲ見ル。夕飯過テ、⑧潟へ船ニテ出ル加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、⑨今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。③弥三郎低耳、十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス
○十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。
奥の細道》《江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風 真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫 作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷(たのもしき)と、蜑(あま)の苫屋(とまや)(★註1)に膝をいれて、雨の晴を待(吹浦・三崎の船小屋での雨宿りの情景)。其朝天能霽(てんよくはれて)て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島(★註1)に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(★註2)をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此 処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道 遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむ(憾む)がごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
祭礼
象潟や料理何くふ神祭   曾良
(象潟の祭礼の日は魚を食うのは禁忌だったらしい。魚を食わないで一体何を食すのだろう)
(あま)の家や戸板を敷て夕涼   美濃の国商人 低耳
(暑い夏の夕涼み、せめて戸板の上なら涼しかろう)
岩上にみさごの巣を見る
波こえぬ契ありてやみさごの巣   曾良
(ミサゴが波濤のかかりそうな崖に巣を作っている。波がかからないという約束事でもあるのだろうか)
★註1 歌枕。「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」(能因法師)。能因法師がこの島に三年間隠れ住んだと伝えられている。本文中の「アマの苫屋」はこの歌に依っている
★註2 歌枕。「象潟の桜は波に埋れて花の上漕ぐ海士の釣り舟」(西行)
〇↓象潟の街中で芭蕉ゆかりの人達の故地を探したがなかなか見つからずウロウロしていたときに、文化財風の公民館の前に「奥の細道」の大絵図があった。以下、大絵図を分解して示す。解説は悉く「曾良随行日記」に依っている
 ↓16日 左図「吹浦を発って三崎峠越えをする」 右図「雨が激しく船小屋に雨宿りする。」
 ↓16日 左図「昼ころ能登屋孫左衛門を訪ねる。その夜は向屋の左右衛門治郎に泊まり、17日は能登屋に泊まる」 右図「象潟滞在中何度も象潟橋から全景を眺望した」
↓「17日 夕方、舟で潟巡りをして島々を眺めた」
 ↓「17日 夕方(★註1 芭蕉は潟巡りを朝飯後のこととしている)、潟巡りの最後にカン満寺へ参拝した」←この文章は、曾良随行日記に忠実ではない。日記では、17日の朝飯後にカン満寺に参り、その日の夕飯後に潟巡りに出ている。芭蕉と曾良の文章の行程をチャンポンにしている
 ↓「18日 早朝、鳥海山の全容を眺めて酒田へ向かう」

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