2019年11月6日水曜日

★奥の細道紀行 第158章 山形県新庄市「俳号風流・渋谷甚兵衛宅跡」

曾良随行日記』『六月朔(一日) 大石田立つ。辰刻(たつのこく・午前八時)、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬二疋、舟形迄送ル。ニリ(里)。一リ(里)半、舟形。‥‥。ニリ(里)八丁新庄、風流(宅に)宿ス。』
〇「風流」は俳号で、本名は渋谷甚兵衛

 〇新庄市街地で、芭蕉が二泊した渋谷甚兵衛・俳号「風流」宅跡を探した。幸い精緻な案内図が手中にありそこに風流宅跡が明示され、現地に「奥の細道・風流亭跡」の標識が立っているというので楽勝気分で臨んだが、甘くはなかった。ここが該当地と思われる地点に到達しているはずだが、肝腎の案内標識がみえない。セレナで何度廻って来ても標識を発見できない。とうとうセレナを駐車場に止めて徒歩で探索を開始した。

↓徒歩で、さっきまでセレナで何度も廻った道を辿って来た。写真の突き当たりはJR線。左が新庄駅で、右が柳の清水。手許の案内図とは通りが一筋違うことになるが郵便局が角にある通りに入って辿ってみることに。歩いて行くと花畑を作っている若いおばあさんがいた。奥の細道・風流亭跡がこの辺りにあると聞いたんですが分りますかと尋ねたら、目を生き生きさせて山形弁で話す。その訛の強い言葉がよく聞き取れない。が、どうやらここがそうだと言ってくれているらしい。花畑の反対側を指さしている。そこの敷地に入って行けば直ぐ分るそう。ボクはとうとう風流亭跡に辿り着いたと安堵してその家の敷地にお邪魔した。
↓花畑のおばあさんが「奥の細道」の標識が立っていると教えてくれた場所はこの辺りしかない。が、見当たらない。目を皿にして探し回ってもない。
↓敷地を抜けて別の通りに出た。右の車庫の裏が先ほどの小庭。急いで小庭に戻り裏の小路に抜けると、さっきのおばあさんが花畑から出て多分家路に就こうとしている。ボクが「奥の細道」の標識がないと話すと、えっ、そんなことはないはずと言って小庭を見に来て言うには、家を新築したときに標識を取っ払って捨てたんかねぇ。新築した家は↓左の家。おばあさんは新築した家の玄関のベルを鳴らしたが誰も出てこない。留守らしい。するとおばあさんは隣の家を訪ねて何やら段取りをしてくれた。そして言うには、隣の人が以前「奥の細道」の標識が立っていた時の写真を保存していてそれを見せてくれるそう。
↓この家の庭に以前「奥の細道」の案内標識が立っていた。
↓佐藤さんのお隣の市田さん宅で見せて貰った写真。中央に確かに「奥の細道」の標識が見える。佐藤さんは、この茅葺の古家を取り壊して、上の写真の現代風の車庫と住宅(左)を新築してしまったようだ。
↓↑隣の家は「市田」さん。
この家の主人が気さくな人で居間に上がれと云うので上げて貰うと、長押(なげし)の上に何とお節介にも隣の佐藤さんの旧屋の写真(前掲)が飾ってあり、その写真には堂々と「奥の細道・風流亭跡」の大きな標識が写っていた↓。ボクは不思議な好運に心の中で快哉を叫んだ。市田さんは、芭蕉ゆかりの故地がお隣さんにあることを誇りにしてきたに違いない。

もっとも風流亭は、次に訪ねる「盛信亭跡」近くにあったという説もある(この写真の地は「盛信邸跡」から遠く離れている)。盛信・渋谷九郎兵衛は風流・渋谷甚兵衛の本家に当たるそう。

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