2019年11月6日水曜日

★奥の細道紀行 第156章 山形県船形町「猿羽根(さばね)峠」

奥の細道》を読むと、芭蕉は立石寺(天童)から大石田に行き、大石田から最上川下りの舟に乗ったかのように書かれている。ところが昭和になって《曾良随行日記》が奇跡的に発見されたことによって芭蕉の文章は虚構であったことが判明した。実際に芭蕉が辿った経路は大石田から陸路を北上して船形町を経由して新庄に至り、新庄で二泊し俳友と句会を催してから陸路を南西にとり最上川の乗船場の本合海(もとあいかい)に着き、そこから舟に乗って最上川下りをして、清川で上陸し羽黒山に向かった。さてその新庄への旅の途中で越えて行ったのが船形町の「猿羽根(さばね)峠」だった。この猿羽根峠は羽州街道一の難所と称せられていたが、今は廃道になっている。
ところで芭蕉はどうして新庄へ行って二泊した事実を抹殺したのか。《奥の細道》最大の疑問点。
↓ここは船形町。左の鳥居を潜ると旧「猿羽根峠」へ行く。右のトンネルは国道。

 「さばね山公園」
 ↓峠への途中に石碑が建っている。
「明治天皇御召換所址」 旧羽州街道であったことの証拠
↓「猿羽根山地蔵堂」に行く道案内
↓一里塚。旧羽州街道であったことの証左

〇「三賢人が越えた峠の道」松尾芭蕉、斎藤茂吉、イザベラバード

↓「猿羽根峠は最上郡と村山郡を分ける峠である。江戸時代の国道である羽州街道は、峠の山頂を経て南北に通じていた。元禄2年(1689)奥の細道をたずねた俳人松尾芭蕉は、この道を辿って新庄に向かった。芭蕉が猿羽根峠を越したのは、この年の旧暦の6月1日(7月17日)暑い日差しの中であった。芭蕉の随行した曾良の旅日記によれば、この日の朝8時頃、二人は馬で大石打を出立し、猿羽根峠を越して舟方に至ったとある。大石田の俳人高野一栄・高桑川水が、阿弥陀堂まで見送ってくれた。舟方からは歩いて新庄に入り、ここで二泊して、土地の俳人たちと歌仙をまいた。6月3日芭蕉主従は新庄を出立、最上川を下って羽黒山に向かった。当時の猿羽根峠は大木の茂ル嶮しい山道であったに違いない。芭蕉はこうした旅の苦しみの中で独自の俳風を確立していった。」

↓芭蕉句碑 
〇「風の香も南に近し最上川」「この句は、「曾良俳諧書留」に「盛信亭」と前書きした新庄の□谷九郎兵衛宅での三つ物の発句である。‥‥」


猿羽根峠に着いた

↓これより「新庄領」の石碑
↓復元された峠から村山郡方面に下る羽州街道。多分途中から草木の中に没する。
↓峠からの眺望。山形県村山郡方面
↓最上川が見える。右が下流。この辺りで大彎曲を三度重ねる。
↓旧国道が見える。今は別にバイパスが開通している。
↓「綬子宝・猿羽根山地蔵菩薩」。ここの地蔵尊と刀伐切(なたぎり)峠の地蔵尊が兄弟だと、なたぎり峠の案内書に書いてあった。





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