2010年6月14日月曜日

6/11(金)夕方、西に向けてセレナを駆った。

行く先は定めてない。とりあえずの候補地は①越前一乗谷「朝倉遺跡」②紀南「那智大社」③比叡山。定宿・福井県「南条SA」で泊まれば①は通過して消える。この日は石川県加賀市「尼御前SA」で晩食を摂り疲れを感じて寝てしまった。
翌朝土曜日05:30に目覚めた。ら、目的地は越前一乗谷に寝てる間に確定していた。出発は早かったが、一乗谷に乗り込むまでにウロウロ。一乗谷川は足羽川の支流、福井平野が山と出会う辺りにある。足羽川は福井平野中央で九頭竜川に合流する川、大野盆地から流れ来る。一乗谷は大きくない谷間。「上の城戸」と「下の城戸」で扼された細長い世界、今も「城戸の内」という町名が残る。遺跡の発掘復興が大々的に行われている。午前中一杯朝倉遺跡の探訪に費やした。こうなると午後は北近江小谷城の登頂探訪に自動的に決定。朝倉とくれば浅井、一乗谷とくれば小谷城とくる。そこに浮かび上がるのは織田信長の幻影。午後はとにかく猛暑となった。山上ではそれほどとは感じなかったが、下界に降りたら狂暑。小谷山は下から見ると形の好い丸山。しかし登って見ると要塞は徹底した縦深陣地。城郭は中腹から山頂に向けて細く一直線に伸びている。要塞の立地する尾根筋の両脇は切り立つ断崖でその下は深い谷。確かに難攻の城。そして吾輩の心臓も目下なかなかの健闘。小谷城にとりつく前に高月町の「渡岸寺(どうがんじ)」で国宝・十一面観世音菩薩に再会。この菩薩も織田信長と無縁ではない。北近江の村々が信長の兵火に遭ったとき、寺は焼かれたが村人はこの菩薩を布に包み地下に埋めて御救いした。この菩薩は有難いことに観音堂で間近に何の遮蔽もなく観察できる。解説ボランティアが時として「おのれ信長(`´)」と500年後の今も口走るというから恐ろしい。信長を天魔として憎悪することにかけてはこの地を措いて外にない、それは比叡山「延暦寺」。全山焼き討ちされ、僧俗を問わず皆殺しにされた。明日はこの地獄を見た比叡山探訪と決まった。坂本へ行き先ず「日吉大社」を探訪し、その足で比叡山に登る。
日曜日、朝からポツリポツリと。「日吉大社」は想像を越えた大社。全国山王神社の総元締め。七尾のデカ山祭りの奉納神社が地元では「山王さん」(正称は「大地主神社(おおとこぬし)」と呼ばれているので一度は探訪しようと。京都・平安京の鬼門に当たる比叡山に全国の名ある神々を集めて厄を封じ込めようとしただけに稀に見る立派な神社。延暦寺と神仏習合して京都の鬼門の厄を封じ込めていた盛時の姿を思うと凄い。国宝・重文のオンパレード、後で写真でお見せする。比叡山は完全な雨の中、琵琶湖の霧靄も立ち込めて写真を撮っても写らない。延暦寺は「論・湿・貧」が特質なんだそうだが「湿」が特質であることは確か。これもまた比叡山延暦寺の真の姿と考えてめげずに探訪し撮りまくった。「東塔」「西塔」「横川」の伽藍仏閣群を雨を衝いて参詣、後でもう1か所「無動寺谷」にも仏閣伽藍があることを知ったがこれは次回に。いずれ生きてる間に好天の比叡山にも再訪する。
さてさて以上の写真だけでもその整理は大変。殺せぇ~(>_<)

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