2010年6月3日木曜日

「南禅寺」(1)

学生時代、今から40年以上も前に、岡崎円勝寺町に1年間下宿した。そのとき南禅寺を何度か訪れた。それは散策程度のもので探訪という性質のものではなかった。今回は探訪。
《南禅寺参拝の栞》から。「瑞龍山太平興国南禅禅寺」と正称する。当寺は、禅宗の臨済宗南禅寺派の大本山である。およそ740年前の文永元年(1264)亀山天皇は山水明媚の当地を愛されて離宮禅林寺殿を営まれた。天皇はその後当寺の開山仏心大明国国師に深く帰依されて法皇となられ、正応4年(1291)離宮を施捨して禅寺とされた。開山は大明国師、開基を亀山法皇、また諸堂伽藍を完成した二世南院国師を創建開山と仰いでいる。歴史上の特色は京都「五山之上」に列せられたこと、当時最も傑出した禅僧が歴代住持として住山したこと、その結果五山文学の中心地として栄えたことなどである。創建当時の伽藍は室町時代明徳4年、文安4年、応仁元年の三回火災に遭い今は一宇も現存しない。現在のものは桃山時代以降の再興である。
総門
総門横の勅使門
「三門」。読みは「さんもん」だが「山門」と書かないところが面白い。石川五右衛門の伝説で名高い。
石川五右衛門 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石川五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代に出没した盗賊。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。従来その実在が疑問視されていたが、近年発見されたイエズス会の宣教師の日記からその存在が確定した。史料に残された石川五右衛門の記録は、いずれも彼の処刑に関わるものである。まず、安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたアビラ・ヒロンの記した『日本王国記』によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった」と記している。《架空の英雄としての五右衛門》江戸時代には伝説の大泥棒として認知されている。盗賊の彼が人気を博した理由は、浄瑠璃や歌舞伎の演題としてとりあげられ、これらの創作の中で次第に義賊として扱われるようになったこと、また権力者豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心を捉えたことにもよるであろう。また徳川政権の下では権力者の象徴として前政権の秀吉が適当だった為と考えられる。歌舞伎『楼門五三桐』の「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と名科白を廻し、辞世の句といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻して山門の上下で「天地の見得」を切るのが有名。ただし実際の南禅寺山門は五右衛門の死後30年以上経ったの寛永5年(1628年)の建築である。この場面の、金爛褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、これが今日では一般的な五右衛門像となっている。



仁王像はない。楼上に釈尊像、十六羅漢像が安置され、狩野探幽・土佐徳悦合作の壁画があるそう、残念ながら無知だったので登らなかった。

法堂(はっとう)


法堂内部
疏水


疎水に上がって見ると
疏水の行方。山裾にぶつかりトンネルに入って行く
鐘楼
南禅院。疏水のアーケードを潜り石段を登ると在る。


南禅院の庭




亀山天皇・分骨所
方丈・清涼殿・庭園の拝観入口
大玄関

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