2010年6月2日水曜日

高岡「瑞龍寺」(1)

ここまでは高岡駅の表側の散歩。「瑞龍寺」は駅の裏手にある。JR北陸本線を越さねばならない。越し方が分らなくて結局駅の観光案内所を頼った。地下街を潜る。
「瑞龍寺」も高岡城=古城公園も江戸時代初期の作品。高岡城は前田利長(前田利家の長男)の隠居城であり、瑞龍寺はその菩提寺、その程度のことも今日まで知らなかった。無知f(-_-;)
前田利長 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山~江戸初期の武将、大名。加賀藩祖である前田利家の長男(嫡男)として生まれる。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。若年より主として豊臣秀吉旗下の将校として転戦した。秀吉没後から徳川幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。《出生~織田政権期》永禄5年(1562年)、前田利家の長男として尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)に生まれる。初めは安土城で織田信長に仕える。天正9年(1581年)、父・利家の旧領越前国府中の一部を与えられ、信長の娘永姫を室に迎える。天正10年(1582年)の本能寺の変は、永姫とともに上洛中の近江瀬田で聞き、当時7歳の永姫を前田の本領尾張荒子へ逃がし匿わせ、自身は織田信雄の軍に加ったとも、蒲生賢秀と合流し日野城に立て籠もったともいわれる。《豊臣政権期》信長没後は利家と共に柴田勝家に属する。賤ヶ岳の戦いにも参加し、戦後父と共に越前府中城へ撤退。羽柴秀吉は北ノ庄城を攻める折り、まつに「孫四郎は置いていく」と利長を残しておこうとしたが、まつはそれを断り利長を出す。利長はわずか2騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わったという。勝家の自刃後は秀吉に仕えた。天正13年(1585年)、秀吉により佐々成政が支配していた越中国(富山県)が制圧されると、同国射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられた。秀吉の配下として九州の役、小田原の役などに参加し、各地を転戦して功績を立てた。《利家死後》父の利家は豊臣政権において五大老として徳川家康に対抗する位置にあった。慶長4年(1599年)3月3日、利家が病没したため、その跡を継ぎ五大老(及び秀頼の傅役)となる。その翌日に五奉行の石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。利家の遺言では3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、同年8月、家康の勧めにより金沢へ帰国した。翌月、増田長盛等が利長・浅野長政らの異心を家康に密告する。この時期、前田氏を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられており、家康は強権を発動して加賀征伐を献言する。この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため、重臣横山長知を弁明に3度派遣し、実母の芳春院(まつ)を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子利常と珠姫(徳川秀忠娘、後の天徳院)を結婚させること、自身の隠居などを約して交戦を回避した(慶長の危機)。この際に浅野長政・浅野幸長・大野治長などが連座している。《関ヶ原の戦い~加賀藩成立》慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝討伐のために出陣し、利長にも出陣が命じられる。家康出陣中に石田三成らが五大老の毛利輝元を擁立して挙兵すると、利長は弟・前田利政の軍務放棄といった問題に悩まされながらも北陸で大聖寺城(石川県加賀市)や小松城(石川県小松市)など西軍に与した諸城を落とした。さらに、浅井畷の戦いでは丹羽長重軍と激戦に及び勝利した。関ヶ原の戦いの後には、西軍に与した利政の領地(能登)と加賀国の能美郡・江沼郡・石川郡松任が加領され、加賀・越中・能登と合わせて120万石を支配する加賀藩が成立した。《晩年》実男子がなかったので、異母弟の利常(利家の四男)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した。慶長14年(1609年)、富山城が焼失したため高山右近に命じて射水郡関野に高岡城を築き移った。慶長19年(1614年)5月20日に高岡城で病没。享年53。高岡に葬り、のち利常が菩提寺として瑞龍寺(堂宇は国宝)を整備した。
「瑞龍寺」探訪で先ず驚かされるのはその参道の立派さ壮大さ。参道は「八丁通り」と呼ばれる。こちらは「前田利長公墓所」に至る参道。
こちらは反対向きで「瑞龍寺」に至る参道
参道の途中に「前田利長公の像」が建つ。
総門に至る。「葷酒山門に入るを許さず」の石碑があるのでこの寺院は禅宗。
瑞龍寺 (高岡市) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、富山県高岡市にある曹洞宗の仏教寺院。山号を高岡山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は前田利常。仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、1997年に国宝に指定されている。これは富山県下における初の国宝指定であり、2009年現在も富山県唯一の国宝である。加賀藩2代藩主前田利長(1562年 - 1614年)が、織田信長・信忠らの追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は慶長10年(1605年)、44歳の若さで家督を異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。前述の法円寺は、利長死去の前年である慶長18年(1613年)、高岡に移された。前田利長は慶長19年(1614年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を「瑞龍院」と改めた(後、さらに「瑞龍寺」に改称)。前田利常は承応3年(1654年)から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手した建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々「善右衛門」を名乗る)が棟梁となって進められた。山門、仏殿、法堂(はっとう)が一直線に並び、左右に回廊をめぐらして諸堂を対称的に配置する伽藍配置は中国の径山万寿寺にならったものといい、伽藍整備が完成したのは利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃であった。瑞龍寺は近世を通じて前田家の手厚い保護を受け、寺領三百石を有する大寺であった。延享3年(1746年)の火災で山門を含む伽藍の前半部分が焼失し、山門が再建されたのはそれから約70年後の文政3年(1820年)であった。」
総門


国宝・山門(仁王門)が見える
山門
山門横のこの建物に浴室がある
山門に阿吽二体の仁王像がある




山門から大庫裏に続く回廊
大庫裏。左へ鐘楼、大茶堂と続く
仏殿
鐘楼
大茶堂
禅堂
仏殿
仏殿の内部。釈迦如来像
法堂(はっとう)

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