中尊寺に参詣するのは25年振りくらいだろう。雨の中を到着。探訪中ずっと雨。
天台宗東北大本山《関山・中尊寺》による中尊寺の紹介
「中尊寺は山号を関山といいます。嘉祥3年(850)に比叡山延暦寺の慈覚大師円仁によって開かれた、というのが寺伝です。円仁は天台宗第三代座主で、世界三大旅行記のひとつ『入唐求法巡礼行記』の著者として知られる高僧です。その後、12世紀のはじめに、奥州藤原氏の初代清衡によって大規模な堂塔の建設・整備が行われました。寺堂の規模は、鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、「寺塔の数が40以上、禅坊(僧房、僧の宿舎)が300以上」であったといいます。清衡の中尊寺建立の目的は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年合戦・後三年合戦という)で亡くなった人々の霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。清衡は『中尊寺建立供養願文』の中で、中尊寺は「諸仏摩頂の場」である、と述べています。この場(エリア)に居さえすればいい。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに「あぁ、おまえさんよく来た、よく来た」と頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる〈まほろば〉なのだ、という意味です。二代基衡は、父の志を継いで中尊寺よりさらに規模の大きな毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡はそれを完成させ、さらに無量光院を建立しました。その近くには奥州藤原氏の政庁跡とも推定されている柳之御所遺跡があります。おそらくは、東北地方を治めるための諸機関があったのでしょう。平泉は、およそ100年近くにわたって〈日本における地方都市のさきがけ〉として繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。しかし、京都の伝統的権威と、鎌倉の源頼朝の勢力と平泉が、それぞれ相対し厳しい状況になってきたのです。そこに、源平の戦い、一の谷や屋島の合戦で活躍した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびてきました。間もなく、義経を保護した秀衡が病死しますと、次の四代泰衡は、頼朝の圧力に耐えかね、文治5年(1189)閏4月に義経を急襲し自害させました。その泰衡も頼朝に攻められ、奥州藤原氏は滅亡したのです。鎌倉時代以降、次第に衰退してきた中尊寺は、建武4年(1337)の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失しましたが、今なお国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、国宝・重要文化財を3,000点以上も伝えています。それも漆工・木工・金工・染織・書と、セットとなって遺っているということが大きな特色であり、東日本随一の平安仏教美術の宝庫とされています。」
中尊寺登り口
《関山・中尊寺》
月見坂
八幡堂
弁慶堂
北上川。衣川が左から支流として注ぐ。
地蔵堂
積善院。抹茶を振る舞う
瑠璃光院・薬師堂
観音堂
天台宗東北大本山
山門
○本堂。明治42年の再建。中尊寺の山内17ヶ院を包括する中心道場。奥州藤原氏の追善、天台宗各祖師の御影供、正月修正会など、一山の法要はほとんどがここで勤修される。また写経・坐禅の修業道場でもある。本尊は阿弥陀如来。壇の両脇には、総本山比叡山延暦寺より分灯された「不滅の法灯」が護持されている
鐘楼
庭園の前
峯薬師堂に抜ける脇門
峯薬師堂
不動堂
大日堂
○梵鐘。1343年に金色堂の別当により発願されて鋳造された盤渉調の梵鐘。撞座は永い歳月に亘る打鐘で窪み、現在この鐘が撞かれることはない。鐘身の銘文には建武四年(1337年)に山上の堂塔が火災により焼失したと記し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える資料としても貴重である
阿弥陀堂
弁財天堂
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