大乗寺には驚かされた。何にと言って、その何気ない佇まいの中に漲る只ならぬ緊張感!緊張感と言っても、宗教的な規律と清楚が生み出す緊張感と、美意識が境内隈なく照らし行き届いて生み出す緊張感のミックス。素晴らしい!美しい!感動した。当然「拝観料」なる野暮なものは要らない、無縁。庭に寝て読経を聴いているオッサンが居るのには驚いた。安心を得るために仏殿の横に坐って時を過ごしている老人もいる。猫も来て寝そべる、烏も舞い下りる。
この日は女房と立山美女平の立山杉の巨樹を堪能しに早朝から出掛けた。三女も加わった。その三女を金沢まで送った、その足で「大乗寺」にとうとう参詣したという訳。大乗寺は高校時代から念頭にあった、いつか参ろうと思ってきた。高校は野田町にあり大乗寺は何となく身近だった、その大乗寺は托鉢僧が(今も)街に修行に出るという謹厳な寺院で知られ好感を持っていた。死ぬまでに訪れることができて良かった。女房も参れて喜んでいた。また来よう、今度はスケッチブックを持参して。
参道入口駐車禁止。右下に写っている車は女房のプリウスf(~_~;)
スダジイか、その幹の太さに敬意
参道。その脇に観音菩薩を中心に1番から33番(僕の数えた限り)までの可愛い石仏が祀られていて楽しい
総門前に着いた。ここまでの参道に対して左に直角に折れて総門までの参道が続く
総門 - 黒門、寛文5年(1665年)建立、石川県指定有形文化財
総門を潜ると道は直ぐに直角に右折する
そして「写経塔」にぶつかり左折する
「写経塔」。中央に「十一面観世音菩薩」左に「不動明王」右に「延命地蔵菩薩」
「山門」に至る
山門 - 江戸時代初期、石川県指定有形文化財
誰でも衝いてよい鐘。僕は突いた。後で聞くと女房も衝いたそう、ちゃっかりしてやがる
山門を潜ると「仏殿」に至る。
仏殿から山門を振り返る
山門から仏殿を見る
仏殿 - 元禄15年(1702年)、重要文化財(国指定)
仏殿から左右に回廊が延びている。こちらは向かって右の回廊、行く先に鐘楼
仏殿右側の庭。寝ている人、じっと坐っている人が居る。右側の建物は書院
仏殿左側の回廊と墓所への入口
左側回廊の中
左側回廊の奥の観音様
仏殿左側の庭、奥の建物は法堂
墓所への門
開山以来の歴代住職の墓所へ
大乗寺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大乗寺(だいじょうじ)は、石川県金沢市にある曹洞宗の寺院。山号は東香山。別名は椙樹林。江戸時代にここで清規(僧侶の修行規則)が再構築され、規矩大乗と称された。本尊 釈迦如来。寺伝によれば、1263年、富樫家尚が野市(現在の石川郡野々市町)に真言宗の澄海を招聘して創建したという。後、禅寺に転じ、1283年、曹洞宗の徹通義介を招聘して開山とした。1302年、瑩山紹瑾が2世住持となる。1311年、臨済僧である恭翁運良が瑩山の後を継いだ。臨済僧が住持となったのは、十方住持制度(禅寺において、自派に限らず他派からも住持を選ぶ)に基づくものと考えられている。しかし、恭翁運良と大乗寺の間にはその後確執があったようで、彼の名は世代から除かれており、1338年住持した明峯素哲が大乗寺第3世とされている。寺は1340年、足利尊氏の祈願所となるが、室町時代後期、戦乱に巻き込まれて焼失した。その後、前田利長の家臣・加藤重廉が檀越となり、寺は木新保(現在の金沢市本町)に移転した。さらに、江戸時代初期には 加賀藩家老本多家の菩提寺となり、現在の金沢市本多町に移転している。1671年には中興の祖とされる月舟宗胡が住持となり、次代の卍山道白(1680年住持となる)とともに寺の復興に努めた。寺が現在地に移転したのは1697年のことであり、当時の住持は、その前年に就任した明州珠心であった。明治時代初期には廃仏毀釈で一時衰退した。昭和50年代、板橋興宗が住職に就任。平成13年(2001年)には駒沢女子大学学長を務めた東隆眞が住職に就任した。
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