倶利伽羅峠の戦い 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「倶利伽羅峠の戦いまたは砺波山の戦い(となみやまのたたかい)は、平安時代末期の1183年6月2日に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。だが、越中へ進出した平家軍が般若野の戦いで義仲四天王の今井兼平に敗れてしまう。平家軍は一旦後退し、能登国志雄山に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして、平家軍の油断を誘い、ひそかに樋口兼光の一隊を平家軍の背後に回りこませた。平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。『源平盛衰記』ではこの攻撃の際に義仲軍は数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に放ったと言われるが、この戦術が実際に使われたかどうかは疑わしい。角に松明をくくりつけられた牛がまっすぐ前方に走るとは考えにくく、おそらく中国戦国時代の斉の武将田単の火牛の計を参考に後世脚色されたものであると思われる。」
昨日は木曽義仲が本陣を敷いた倶利伽羅峠・埴生口を見分した。今日は平家軍が峠を目指した竹橋口を振り出しに旧北国街道を辿って倶利伽羅峠源平古戦場を見分することに。
道の駅「倶利伽羅源平の郷・竹橋口」。巨大な火牛像が出迎えてくれる、迫力満点・圧巻、叩いてみると張り子の牛
この地図は好い、大きくお見せできればいいんだが。平家軍は水色。布陣しているのは「倶利伽羅不動尊」「五社権現」「猿ヶ馬場」「倶利伽羅峠」にかけての平坦地。その面積は大きくない。ここに7万の軍隊が駐屯することは到底不可能、せいぜい2万前後が限度じゃないか(直感)(平家軍は10万と言われているが、うち3万は志雄山方面に割かれている)。対する源氏軍は5万と言われているが、これも大袈裟。1000名程度の部隊に分かれて夜襲を掛け、その総勢は1万もいなかったんじゃないか
以上二つの図面は、古戦場・猿ヶ馬場に亡霊の如く忽然と現れた源氏の子孫から頂戴した。その人物は頼みもしないのに寄って来て「蟹谷正之」と名乗った(教員免許を示したから間違いない、社会の先生)。そして言うには、自分は三、四年前からボランティアで古戦場を案内し解説している、自分は源氏の勇士「蟹谷次郎」の800年後の子孫である、蟹谷次郎は保元・平治の戦いに敗れて京を追われた源氏の武士で越中国に住み着いた、木曽義仲の旗上げに呼応し倶利伽羅峠の夜襲戦で源氏軍を敵陣に導き勝利に貢献した、眼下の谷こそ平家軍が雪崩れ落ちた「地獄谷」であり「膿川(うみかわ)」はあの谷間を流れる、等々。何よりも猿ヶ馬場に立ち古戦場の地理を識者の指示で比定できたのは嬉しい。
猿ヶ馬場に建っている観光案内図
白い矢印は、地獄谷に雪崩れ落ちていく平家軍を示している
木が伐採されている部分が、地獄谷に落ち込んでいく崖の斜面
「蟹谷次郎由緒之地」石碑。蟹谷次郎は実在した
この由来記にも随所に「蟹谷次郎」が登場する
猿ヶ馬場。火牛2頭の像がいる
猿ヶ馬場に立つ「蟹谷正之」氏
案内してくれた源平供養塔、猿ヶ馬場にある
「為盛塚」。為盛は平家の勇将だったそう
「源平合戦慰霊之地」石碑
旧「北国街道」の一部。蟹谷氏の説明では、この道筋に「三十観音」等の石仏が並んで居たそう
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