午後は酷暑となった、30°は優に超えている。とにかく暑い(>_<)
高月町から見た「小谷山」。左方の形の良い山が「小谷山」。右方の低い山が「虎御前山」
「小谷山」
「虎御前山」。攻城軍の本隊が駐屯した
小谷城を理解するのにはこの案内図が一番分り易い。「清水谷」を挟んで尾根が二つ、右側の尾根に「小谷城」が展開する。左側の尾根、こちらの頂上は右側よりかなり高い。この高い山頂に、信長の小谷城攻めのとき浅井勢の援軍に駆け付けた朝倉勢が陣取った、その砦が「大嶽城」。朝倉軍は士気が初めから低く動きが鈍かった。それが小谷城攻防戦の最中に撤退を始める、信長側の調略の手が伸びて朝倉軍が分裂したんだろう。朝倉軍の動きを読んでいたかのように信長は直ちに自ら本隊を率いて追撃する。そして余呉町柳ヶ瀬、刀根坂で追いつき完膚なきまでに撃破する。朝倉軍は散り散りに逃げ軍隊の体を成さない。朝倉義景は近習供廻りの者数10名のみで一乗谷に逃げ込み触れを出すが、最早家臣で従う者はいなかった。従弟の越前大野城主の勧めで大野盆地に落ち延びるがその従弟の騙し討ちに遭い滅亡する。信長は電撃戦で戦国大名・朝倉家を粉砕した。小谷城は一朝にして丸裸の孤塁と化した。浅井久政・長政父子は、不甲斐ない朝倉義景に対する義理のために信長に反旗を翻した結果、滅亡への坂道を転げ落ちて行くことになった。信長が越前敦賀・金ヶ﨑城で朝倉勢と浅井勢に挟み撃ちになること必至の状況下、あっと言う間に単騎で駆け出して蒸発し朽木谷を突っ切り京に逃げ込む芸当のできる男であることを想像できなかった浅井父子の負け。信長はあの桶狭間で10倍の今川軍に突っ込み見事「義元」の首を挙げた軍神、そのことの評価が甘かった。
小谷城は尾根筋に築かれた縦深陣地。両脇は深い谷に落ち込む断崖。山頂にあるのが「山王丸」。その下に「小丸」、この「小丸」に籠城戦のとき浅井久政が陣取った。その下に「京極丸」。その下に「中丸」。その下に「本丸」、本丸に浅井長政が陣取った。中丸と本丸の間には「大堀切」があり人工的に分断されていた。本丸の下に「大広間」、この平坦地が小谷城の砦の中で最も広い。以下「桜馬場」「馬洗い池」「御馬屋」「御茶屋」と続き「番所」に至る。この「番所」が攻め上がる立場から言えば最初の城砦となる。「京極丸」攻略に取りついたのは羽柴秀吉、この攻防戦で小谷城の命運が決まった。京極丸が秀吉の手に落ちて、小丸に陣取る父久政と本丸に陣取る子長政の連絡連携が断たれた。程なく父子は別々に自刃する。秀吉による「お市の方」と三人の娘の救出劇はこの段階でのこと。
「番所」の下にある「金吾丸」への登り口
追手道。番所の下
琵琶湖を望む。中央に浮かぶのは「竹生島」、遠景の丸い山は「山本山」
「番所」。ここから小谷城砦が始まる
信長が本陣を置いた「虎御前山」
「御茶屋跡」。ここも純然たる城砦
「馬洗い池」「御馬屋」
「馬洗い池」。泉ではないが水が涸れることはなかったという
「御馬屋址」
見たことのない蝶を発見、小型
「首据石」。浅井亮政が六角氏との合戦のとき敵方に内通していた重臣の首を切って晒したそう
長浜方面が遠望できる
「赤尾美作守」屋敷跡。長政は最期この屋敷で自刃する。本丸に近い
「黒金御門跡」。鉄扉の如き大門があったと思われる
「大広間」
「桜馬場」
桜馬場から「本丸」を見る
本丸にて
本丸の横手に「御局屋敷」があったらしい。左の崖を上がると本丸
「大堀切」。一続きの丘を人工的に分断した。右が本丸の崖、左が中丸の崖
中丸の崖
本丸の崖
「中丸」に立って
「刀洗い池」
「京極丸」に立って
「京極丸」を羽柴秀吉に攻略占領されて小谷城の命運は尽きた
「小丸跡」。浅井久政が籠っていた
石垣石塁がほぼ完全に残るのはこの一角だけ。浅井の残党が籠るのを懼れて、織田方が完膚なきまでに破壊し岩石を皆深い谷底に落としたものと見える
「小丸」と「山王丸」との間の崩れた石塁
山頂の「山王丸」に立って
「山王丸」の背後は谷に下る。谷は清水谷。「大嶽城」には朝倉義景が小谷城の後詰めに布陣した
清水谷に下って行く
小谷山は中腹まで車で登れる。「番所跡」の手前まで。その点は楽。それにしても心臓病持ちの人間のやることではないかもf(^_^;)
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